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氷上のプリンス・羽生結弦さんの仙台時代〜オリンピックまで

私は羽生結弦選手の大ファンです。

オリンピックで活躍されている姿を見る度に感動し、たくさんの勇気をもらっています。今も尚、世界中で活躍し続ける羽生選手について調べてみました。

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羽生結弦選手は宮城県仙台市泉区出身、1994年(平成6年)12月7日生まれの23歳。

身長は171cm、体重は56kgです。ファンの間では「ゆづ」という愛称で呼ばれています。羽生選手の父親は地元・仙台で公立中学の教頭を務めているそうです。

家族構成は父・母・姉の4人。羽生選手は仙台市立七北田(ななきた)小学校を卒業しています。

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小学生の頃にソルトレークシティー五輪が行われました。

…氷上を舞う、ロシアのヤグディンとプルシェンコの激突を見て、夢舞台への憧れを抱いていたそうですよ。

スケートシューズ

ちょうどこの頃、新松戸アイスアリーナから都築章一郎コーチが仙台に移ってきて、小学校6年まで指導を受けることになったそうです。

しかし、この時期には早くもスランプに苦しんでいたようで「同期の中で僕が一番、3回転をきれいに跳ぶのが遅かった」と語っています。

しかし、小学校・高学年になるにつれて体も出来上がり、ジャンプの精度も向上。

小学校4年の10月に初出場した『全日本ノービス』で優勝すると、フィギュア関係者の間で「仙台にマッシュルームカットの天才がいる…」と噂されるようになるんです。

羽生選手はこの頃から「五輪で金メダルを獲る!」という目標を持っていたそうですよ。

このエピソードを聞いた時に、小学校の頃から高い目標を持っているゆづは、やっぱり天才なんだな…と感じました。

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小学校を卒業すると仙台市立七北田(ななきた)中学校へ入学。

中学時代の羽生選手は、さまざまなスケートの大会に出るため、学校は休みがちになっていたようです。

スケートの練習があるので塾にも行けず、普通なら勉強が遅れてしまうものですが、羽生選手は自分で問題集を購入し、スケートと学業をしっかりと両立されていました。

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自覚はもちろんあったとは思いますが、現在、中学校の校長を務める父・秀利さんの「スケートだけの人間になるな」という教えをしっかりと守っていたのだと思います。

遠征先にも参考書を持っていき、時間を見つけては勉強をしていた羽生選手は、遅れるどころか、成績は優秀だったと言われているんですよ。

学校

学校では勉強だけでなく、掃除係などにも積極的に取り組み、周囲に迷惑をかけないよう努力していたそうです。

スケートの実力から、学内で天狗になってもおかしくない年頃ですが、学校に来たらやるべきことは必ず成し遂げていたので、クラスメイトにも愛されていたそうです。

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中学校を卒業すると仙台市の東北高等学校へ入学。

東北高等学校といえば、本田武史さん、荒川静香さんらを輩出した、フィギュアの強豪校です。

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そんな、羽生選手が高校一年生だった2011年3月11日。期末試験を終え、アイスリンク仙台で練習していた最中…

東日本大震災が発生しました。

ライフラインはすべて止まり、実家は全壊指定。羽生選手の一家は、小学校の体育館に4日間も避難していました。

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この頃、羽生選手の心は「生きていくだけで精いっぱい。このままスケートを諦めてしまおう」というような不安定な状態にあったようです。

しかし、そんな羽生選手を後押しするように、宮城県と仙台市は、アイスリンク仙台に、異例の営業再開を要請。再び地元で練習がで出来る喜びを味わった羽生選手。

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めきめきとフィギュアの腕を上げ、震災から1年後の2012年3月…世界選手権に初出場し、銅メダルに輝いています。

私はこの時、羽生選手がテレビのインタビューで答えていた言葉が今でも忘れられません。

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「被災地のために滑ろうと思っていたのですが、それは違うんだな、と。逆に、僕は、支えられている立場だったんです。応援されている立場。その応援をしっかり受け止めて、演技することがいちばんの恩返しだと気づいたんです。やっと自分のなかで、震災を乗り越えられたんだという気持ちになりました。」

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地元への愛や情熱、感謝の気持ちが伝わり胸が熱くなります。

高校を卒業後は早稲田大学人間科学部『eスクール』に在籍。大学在学中は、平昌で見事金メダルを獲得しましたよね。

今思い出すだけでも鳥肌の立つ素晴らしい演技でした。

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…羽生選手がスケートを始めたきっかけは、2歳から持病となっていた喘息を克服するための治療の一環だったようです。

今の姿からは考えられませんが、幼少期の頃は身体が弱かったんですね。

ちなみに、お姉さんが先にフィギュアスケートを習っていて、それに憧れた羽生選手もフィギュアに興味を持ち始めていたようです。

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そんな羽生選手の名前は、父親が「弓の弦を結ぶように凛とした生き方をして欲しい」という願いを込めて命名。

羽生選手は、その名にふさわしい生き方をされていますよね。

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持病や震災にも負けることなく、現在も努力し続けている羽生選手。

その姿から、元気や勇気をもらっている人は日本のみならず世界中にいるのではないかと思います。これからも羽生選手を応援していきたいです。

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